エーゲ海地方(パムッカレ・エフェソス)

エーゲ海地方(パムッカレ・エフェソス)

 

エーゲ海地方での観光おすすめスポット

ヒエラポリス-パムッカレ ★★★ (世界遺産1988年登録)

パムッカレ(Pamukkale トルコ語で「綿の城」の意味)は地面から湧き出た石灰成分を含む温泉水が山肌を流れ作られた石灰棚で有名です。
実際に石灰棚を歩くと意外な温泉水の急流に驚かされます。現在立ち入り区域は限られており、素足で歩くことが求められます。

ヒエラポリス-パムッカレはトルコ西部・デニズリ県にあるユネスコの世界遺産(複合遺産)の登録名。パムッカレは石灰華段丘からなる丘陵地の名前であり、2世紀頃、ヒエラポリスというローマ帝国の都市が存在した。現在は遺跡が残る。

パムッカレとは、トルコ語で「綿の宮殿」という意味。綿とあるのは昔からこのあたりが良質の綿花の一大生産地であることによる。二酸化炭素を含む弱酸性の雨水が台地を作っている石灰岩中に浸透し、炭酸カルシウムを溶かした地下水となる。その地下水が地熱で温められて地表に湧き出て温泉となり、その温水中から炭酸カルシ

ウム(石灰)が沈殿して、純白の棚田のような景観を作り出したものである。棚田の畦の部分は、流れてきた植物片などがひっかかり、これに石灰分が沈着して次第に堤のように成長する。これは温水が畦を越流する時に石灰分の沈積が化学的に加速するためでもある。このよう
な景観が約200mの高さにわたって形成されている。規模はずっと小さいが、同種の微地形が鍾乳洞内にもみられることがあり、これを畦石池という。

ヒエラポリス遺跡 パムッカレの石灰華段丘の一番上にある遺跡。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。ローマ帝国時代にも地震で破壊されるが、その後復興。しかし1354年の大地震で完全に廃墟と化す。ローマ劇場、ローマ浴場などが残る。

(以上フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)
パムッカレへの空路のアクセスはデニズリチャルダック空港でトルコ航空がイスタンブールから1日1往復運航しています。(2011年12月現在)
陸路では長距離バスがデニズリ、夜行寝台特急としてパムッカレエクスプレスがあります。お土産として最適なのはデニズリのタオル。

ヒエラポリスは紀元前2世紀後半に古代王国ペルガモンのエウメネス2世によって作られた都市。ローマ帝国の温泉保養地として栄えた。石灰棚の上方に位置しています。

ツアー中には遺跡の沈んだ屋外温泉プール(アンティークプール)に入泉も可能です。
また、パムッカレから5キロほどの場所にある温泉保養地カラハユットには鉄分を多く含む温泉水が湧き出ています。
パムッカレ自体はそれほど大きな街ではなく、デニズリにも特記するほどの見どころはないため観光には1日あれば十分。

宿泊をするなら温泉ホテルがお勧め。トルコの温泉は水着着用であることをお忘れなく。
パムッカレからアフロディシアスの遺跡ツアーに参加も可能。

アフロディシアスの遺跡

紀元前1世紀頃からの遺跡が残る。アフロディテ神殿、哲学学校跡、劇場、音楽堂。ローマ式競技場などがある。

最寄りの空港は デニズリチャルダック空港 Denizli çardak airport
最寄りのオトガルは デニズリオトガル(長距離バスターミナル、近日新オトガル複合商業施設オープン予定)

パムッカレの情報 ヒエラポリス-パムッカレ ウィキペディア

 

エフェソス ★★★
エフェソス都市遺跡は世界最大級の遺跡で、遺跡群の中にあるアルテミス神殿は古代世界七不思議の一つに挙げられています
最盛期にはアレキサンドリア、ペルガモンにつぎ世界3大図書館の一つとされたセルシウスの図書館もこの遺跡群の中に含まれています。

遺跡群からは離れたところになりますが、聖母マリアが晩年を過ごしたとされる聖母マリアの家もエフェソスの近くにあります。

エフェソス考古学博物館には胸部に多数の卵型の装飾を付けた独特な形のアルテミス女神像が収蔵されています。

エフェソス観光にはセルチュクのペンションを起点にする方法とクシャダスのリゾートホテルを起点にする方法が一般的です。
クシャダスのリゾートホテルではプライベートビーチのあるところもありますので、1日はエフェソス観光、1日はフリータイムとして、エーゲ海で泳ぐというプランも可能です。

クシャダス(Kuşadası トルコ語で「鳥の島」の意味)の海岸沿いには土産物屋やシーフードレストランが立ち並んでいます。港のすぐそばに浮かぶギュヴェルジン アダ(トルコ語で「鳩の島」の意味)へは橋を歩いて渡ることができます。

セルチュクの東へ9キロ行ったところには19世紀の住居で有名なシリンジェ村があります。山間の素朴な村には住居を宿泊できるように改装したものもあります。シリンジェには土産物屋も立ち並び、郷土料理の食べられるレストランもあります。

クシャダス沖2キロの場所にはギリシャ領のサモス島があり、夏季であれば毎日運航されているフェリーに乗ってサモス島へ日帰りで出かけることも可能です。

エフェソスは、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシア語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシア人都市である。現在は遺跡が残って

いるのみである。もとは港湾都市であったが、土砂の堆積により現在は海岸から離れている。エフェソスの最初の住民はギリシア人ではなく、リュディア人だったと考えられている。ヒッタイト人の文献に登場するアルザワ王国都市アパサがエフェソスと同一の都市であると多くの者が考えてい
る。発掘からはミュケナイ文化に属する陶器が見つかっている。
古典期のエフェソスはアルテミス崇拝で著名であった。エフェソスでは比較的遅くまで王政が敷かれた。哲学者ヘラクレイトスはこの町の出身である。

紀元前356年、エフェソスのアルテミス神殿に放火すれば後世に名が残ると考えて実行した者がおり、このとき神殿は完全に焼尽した。エフェソスの市民は記録にこの男の名を留めまいとして、あらゆる公的記録からその名を削ったが、この試みは失敗し、ヘロスタトスという名が伝わっている。ア

ルテミス神殿は再建され、世界の七不思議の一つに数えられた。

アレキサンドリアの図書館、ベルガモの図書館と並ぶかつての世界三大図書館の一つ、エフェソスのセルシウス図書館の跡地エフェソスはヘレニズム都市として栄えたが、紀元前2世紀に共和制ローマの支配下に入り、小アジアの西半分を占めるアシア属州の首府とされた。共和制ローマ最末期に第二回

三頭政治の一頭として権力を握ったマルクス・アントニウスがプトレマイオス朝エジプトの女王クレオパトラ7世と共に滞在した地で、かつクレオパトラとの内戦で敗北して捕虜となったアルシノエ4世が送られ、そしてアントニウスら2人の意向により殺害された地としても知られている。その後、古代
ローマ帝国の東地中海交易の中心となった。現在残るアルテミス神殿の遺構はローマ時代に建てられたもので、巨大な図書館と劇場を備えていた。劇場は当時最大のもので、5万人が収容された。エフェソスの繁栄は港湾によるところが大きかったが、土砂の沈降により2世紀頃から港湾の規模は縮小さ
れていった。これは、エフェソスの側にある2つの山から流れ込む土砂の堆積によるものであった。エフェソスには比較的早くキリスト教が入り、新約聖書にはエフェソスの教会にあてた書簡、エフェソスの信徒への手紙がある(パウロに帰せられるが、真筆書簡かどうかには疑いがある)。また伝承
では、使徒ヨハネはパトモス島の流刑から解放された後、エフェソスの教会の主教(司教)を務める傍ら、ヨハネによる福音書を書いたと伝えられる(ただし現在の研究ではこの伝承の史実性は否定されている)。

イエスの母マリアも使徒ヨハネとともにエフェソスで余生を送ったと伝えられる。またアンティオキアのイグナティオスにも、エフェソス教会に宛てた書簡が残っている。4世紀以降キリスト教が公認されると、エフェソスはたびたび教会会議や公会議の舞台となった。その

中でも重要なものは、東ロ-マ(ビザンツ)皇帝テオドシウス2世の勅令下で開催され、ネストリオス派に異端が宣告された431年のエフェソス公会議と、単性説と三位一体論の論戦が行われて前者が正統とされた449年のエフェソス強盗会議である。この決定は後に覆された。

東ローマ帝国の下でも、エフェソスは引き続きアシア属州の首都として繁栄した。政治と経済の中心であり、また府主教座が置かれる教会行政の中心でもあった。多神教が禁止された後、一部アルテミス神殿や劇場は街の建築資材を得る場所とされ、石材が搬出されるとともに、一部は住宅地に侵食さ

れていった。エフェソスの神殿の石材の一部はコンスタンティノポリスの建築資材としても使われた。7世紀に入ると、ペルシアやアラブの勢力拡大を受け、7世紀半ばに城壁が設けられた。この頃になると、港の沈降が進み、近郊の港が外港として使われるようになった。また帝国の官僚や教会は、古来の都市からアヤソルクの丘に中心を移した。その結果、市域は分散し、また拡大した。その後も
経済活動は活発に行われたが、8世紀に至りアラブ人の攻撃をたびたび受けたことから、東ローマ帝国はエフェソスを放棄した。港が完全に埋まったのはその後のことである。

現在のエフェソスは、トルコの小村アヤソルクの一部である。世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂『聖母マリアの家』、聖ヨハネ教会、考古学博物館などがあり、トルコの重要な観光地の1つにな

っている。世界遺産には登録されていない。『聖母マリアの家』には、バチカンからの代表者が毎年参拝するほか、歴代のローマ教皇も訪問している(1967年パウロ6世、1979年ヨハネ・パウロ2世、2006年ベネディクト16世)。
(以上フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

エフェソスへの空路のアクセスはイズミル空港。イズミル空港からは車で1時間程度の場所になります。

陸路では長距離バスのセルチュク停留所が便利です。
エフェソスを観光するのに便利な宿泊場所はクシャダス。クシャダスには大型のリゾートホテルが多く、プライベートビーチのあるホテルもたくさんあります。バックパッカー向けにはセルチュクにペンションがあります。
お土産として最適なのは乾燥いちじく、ワイン、オリーブオイルやオリーブ石鹸。

クシャダス

クシャダスはトルコ共和国の西部、アイドゥン県にある都市。 かつて高度な文明を築いた古代都市エフェソスの港として繁栄した、小アジア最大の貿易港。今ではエーゲ海に隣接するリゾート地。坂と海の多い景観が美しいとされ、トルコ人にもその他外国人にも観光地として名高い。

クシャダスからフェリーでギリシャ領のサモス島に渡ることができますが冬季は運行がないこともあるので注意。

クシャダスの海岸沿いを散策するのもおすすめ。沖には鳩の島があり14世紀からの城塞が今も残っています。

近郊にはミレトス・プリエネ・ディディマがあり、ツアーも催行されています。

少し足をのばしてシリンジェ村という山間の小さな村に訪れてみるのもお勧め。

イズミル
 イズミル(İzmir)はエーゲ海に面するトルコの都市。古くはスミュルナ(Smyrna, スミルナとも。)と呼ばれた。イスタンブルに次いでトルコ第2の規模の港湾施設を持ち、人口ではトルコ第3の都市である。2000年の人口は2,409,000人。イズミル県の県都。北大西洋条約機構(NATO)の司令部が置

かれている。その美しさは「エーゲ海の真珠」と称えられる。
第一次世界大戦においてオスマン帝国が協商国側に降伏すると、1919年5月15日ギリシア軍はアナトリアに上陸し、イズミルを含む一帯を占領した。その後、1920年8月のセーヴル条約で、ギリシアによるイズミル地方の領有が期限つきで認められたが、1922年9月にはケマル・アタテ
ュルクの率いたトルコ軍が奪還した。1923年7月のローザンヌ条約によってトルコの主権が回復された。付近にはエフェソス、ベルガマ(ペルガモン)、などの古代遺跡もあり、多くの観光客を集める。2005年のユニバーシアード夏季大会の開催地。
2015年の国際博覧会の候補地となっていたが、投票でイタリアのミラノに敗れた。

ミレトス
ミレトスは、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸、アナトリア半島(小アジア)西海岸メンデレス川河口付近にあった町(ギリシア人の植民市)である。青銅器時代から人が住んでいた。タレスなどミレトス学派をうんだことで有名である。

紀元前5世紀初頭、イオニアの反乱が起こりペルシアに鎮圧されたが、紀元前334年に、アレクサンダー大王によって解放された。最終的にオスマン帝国が支配して港として利用したが、 港が沈泥でふさがれた時、ミレトスは捨てられた。 現在、都市の跡は海から約10キロメートル奥にある。
以上フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より)

プリエネ
古代イオニアのギリシア植民市で小アジア西岸南部。イオニア12都市の一つで,ギリシア七賢人の一人ビアスの出身地。前4世紀に再建。古代都市のうち最も設備の整っていたことが遺跡から判明している。

ディディム
小アジアにあったイオニア人の聖域。現在のトルコ西部の町ディディムにあり、古代都市ミレトスの南約20キロメートルに位置する。イオニア人が定住する以前から地神の神託所が存在し、紀元前8世紀から前6世紀にかけてアポロンを祭る神殿が建造された。デルフォイと並ぶ神託所として知られた

が、前5世紀にペルシア軍により破壊。古代ローマ帝国のハドリアヌスの時代に改修された神殿の遺跡がある。

★ミレトス・ディディム・プリエネツア(全日)はクシャダスから催行。

ボドルム
ボドルム(Bodrum) は、トルコ共和国の港湾都市。ムーラ県に属する。かつての古代都市ハリカルナッソス (en:Halicarnassus) 。現在はリゾート地としても栄えている。また近くの海から紀元前4世紀の青銅の女神デメテルの像が発見され、その後30隻以上の沈没船が発見されている。

トロイ ★
トロイの木馬で有名なトロイの遺跡。チャナッカレを起点にチャナッカレ・トロイツアーで周ることができる。半日ツアー。

チャナッカレ
チャナッカレ自体にはそれほどの見どころはなく、トロイ遺跡への起点として立ち寄る。対岸には第一次世界大戦の激戦地、ガリポリ半島がある。ガリポリツアーに参加して回ることができる。

毎年4月25日前後にはアンザックデーと呼ばれるオーストラリア、ニュージランド軍人のための慰霊祭があり、オーストラリア、ニュージーランドからのツアー客で混み合うので、この近辺の日付は避けた方が賢明。